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ジーコ (Zico) ことアルトゥール・アントゥネス・コインブラ(Arthur Antunes Coimbra)鹿島アントラーズ

鹿島では選手としてプレーするだけでなく、現場での全体への指導や試合中の采配も兼任し、カシマスタジアムの芝の長さも自ら決定していた。その結果、旧2部リーグの弱小チームを名実ともに日本を代表するサッカークラブに成長させることになるが、来日早々は有名ゲスト扱いで毎夜何らかの会合に呼ばれてはスター選手として持て成され、練習場へは電車通勤、ロッカールームには所属選手らの汚れたシューズが散らかり「こんな汚い所では寛げないよ、次もこんな状態だったら僕が全部捨てるよ」と、おもむろに自分のシューズの手入れを始めたジーコに周囲は唖然とする。他に自分から線審を買って出てジャッジとプレーの関連を指導していた。ジーコにとってもこの時期は暗中模索で苦心しており、練習後に「僕は一体何をしてるんだ」と自問し嘆息していたが翌日には溌剌と参加して練習が終わったらまた頭を抱えて呻くという毎日を繰り返す。

1993年にJリーグが開幕した当初、この小さな町のクラブは横浜マリノスヴェルディ川崎といった大都市の名門クラブに対し圧倒的な不利が予想されていた。しかし、自分のプレーが活きて、且つ合致するアルシンドを日本に呼び寄せて開幕戦の名古屋グランパス戦でJリーグ初のハットトリックを決め5-0で圧勝すると勢いに乗り、大方の予想を覆し1stステージ制覇。チャンピオンシップ準優勝の結果を残し日本のサッカー界を積極的に盛り上げ、鹿島町(現、鹿嶋市)からも表彰を受けた。空前のサッカーブームによりジーコの下、鹿島アントラーズ初期黄金期を築きあげ、来日前のプロサッカークラブの設立と成功を実現させる。

彼は世界トップクラスの選手として戦術や組織はもちろん、プライド、規律、プロ意識をチームにもたらし、この短期間の成功の大きな支援となった。これによりマスコミやファンは「サッカーの神様」と賞賛した。 1994年第1ステージで現役を退きブラジルへ帰国したが、1995年に鹿島のテクニカル・アドバイザーに就任し、これ以降も日本との関係を維持し続けた。

また、プロとしての現役からは退いたものの、ビーチサッカーのブラジル代表ではプレーしており、ビーチサッカーチャンピオンシップ(後のFIFAビーチサッカーワールドカップ)では1995年と1996年の2大会で優勝し、1995年の大会ではMVPおよび得点王にも輝いている。1996年にリオデジャネイロでCFZ(ジーコFootballセンター)を設立、ブラジル国内の選手育成や、かつては鹿島の若手選手育成の場として用いられていた。1998年に鹿島のテクニカル・アドバイザー在任中に、ブラジルサッカー連盟の要請を受けブラジル代表のテクニカル・ディレクターに就任し、FIFAワールドカップ・フランス大会にスタッフとして参加した。